ジモシルインタビュー5@伊東市、上野洋臣(炭火割烹とも 店主)さんです!

上野洋臣さんは4年前にオープンした「炭火割烹とも」を、夫婦2人で経営されています。
料理人として伊豆に来るまでの経緯や、現在のコロナによる影響のお話を伺いました。
ーよろしくお願いします。上野さんは、伊東市で働くまでの経緯を教えてください!
9年前に伊東に来ました。その前は六本木のお店で料理長をやっていたのですが、伊豆多賀で料理長をしている先輩から、伊東市の桜並木にある「守破離」という旅館で料理長として働かないかというお誘いがあり、伊東市で働くことにしました。
当時、東京での仕事は環境が合わず、なんとなく違和感がありした。そんな時に働くことを誘われたので、伊東に行ったことはありませんでしたが、「楽しそうだな」と思って来てみました。
ー東京で違和感があったというのは、どのような部分に感じましたか?
東京では、料理長として思っていた仕事とは違うこともやらなければなりませんでした。「こんなことまでしなきゃいけないの?」と思うことがあり、その部分に違和感を感じていました。
ー板前歴はどのくらいの長さですか?
19年です。18歳の頃から専門学校に1年間行って、それから調理師になりました。その後はほとんどの期間横浜の「日本料理青柿」で修行して、そのあと先輩から六本木のお店に料理長として誘われて、約1年働きました。それから9年前に伊東に来て料理長として働き、4年前に今のお店を始めました。
ー料理を始めようと思った理由は何ですか?
物心つくぐらいの時から料理は自然とやっていました。好きかどうかというよりも、あまり意識せずにやっていました。
学生時代も、お弁当屋さんややファミリーレストランなど、飲食のバイトをしていました。
実家でうちの母親も飲食関係のお店を経営していたので、それも影響しているのかもしれません。
ー日本料理を選んだ理由はなんですか?
日本料理が一番かっこいいと思ったからですかね。
昔はカウンターから厨房がはっきり見えるお店は日本料理店がほとんどでした。そこで目にした振る舞いのかっこよさのイメージがあり、和食のイメージが僕の中で強かったのかもしれません。
ー伊東で働いてみて、働きやすさはありましたか?
働きやすいというよりも、暮らしやすさが大きかったです。伊東で働き始めたころはむしろ、食材の仕入れが大変でした。東京や横浜では前日の夜中に食材を注文しても次の朝には届くのですが、伊東だと同じものを注文すると1日以上かかったりします。
ただ、4年前からこのお店を始めた時からは、伊豆周辺のいい食材を買うことができるし、注文も生じるタイムラグを計算して発注するようにしたので、その点については問題なくなりました。
一方で暮らしについては、東京にいた頃よりもゆったりできていました。「守破離」で働いていた時は、朝食の準備もあるのでもちろん早起きするのですが、朝の準備が終わった後は十分休憩することができました。
環境が合っていたので、仕事をしていても心にゆとりを持つことができ、東京で働いていた時のしんどさを感じることはありませんでした。
ーお店を始めた理由はなんですか?
僕の妻の言葉がきっかけです。僕は伊東で料理長をしていた時、またいつか東京に戻るのだろうと思い、自分のお店をやるなんて全く考えていませんでした。当然、伊東で結婚するなんてことも想像していなかったのですが、妻との出会いがありました。そして妻に、「自分のお店をやらなきゃ意味がないんじゃない?」と言われたのです。せっかく職人として仕事をしているのに、勤め人で終わっていいのかと問われ、「確かにそうだな」と思い、自分のお店を持つことを決めました。
妻の言葉がなかったら、この決断は絶対にせずに、勤め人で終わっていました。
ー奥さんとはどのように出会ったんですか?
妻は、焼肉屋「ふくちゃん」の隣に昔あった「和風スナックとも」というお店でママをやっていました。「ふくちゃん」でご飯を食べていたとき、そのお店のお母さんが「隣のお店のママ、面白いから行ってみなよ」と言われ、そこで初めて今の妻に会いました。
ー上野さんから見て、奥さんはどのような人ですか?
明るい。面白い。そして面倒見がよくて、かわいがっている若い子が困っていたりしたら、必ず助けに行って話を聞いたり、できることをやっていたりしてますね。
性格で言ったら、妻がプラスで、僕がマイナスかもしれません。正反対の性格ですね。
ー料理長としてではなく、お店のオーナーとして働いて感じた難しさはありますか?
最初は、お客さんと喋ったり、手元を見せて料理をしたりすることに慣れなくて、そこが大変でした。ただ、このような手元が見える形で清潔感のある調理をすることで、お客さんには安心して料理を食べてほしいと思っています。
キッチンの配置は僕が考えましたが、お店全体のレイアウト(個室、色合い、障子の紙)は全部妻が考えました。

ーSNSでの発信も多いですが、それも料理を安心してほしいという気持ちからですか?
それもありますが、SNSを見た人が興味持ってくれたり、日本酒好きの人が来てくれたりしたらいいなという気持ちが大きいです。
あとは常連のお客さんに「こういう食材が入ったよ」と情報を流しているという意味もあります。
ーお店をやっている中で大変だったことはありますか?
最も大変なのは今のコロナです。給付金が無ければ、余裕で潰れてしまっていました。
ただ、どの時期が大変だったということはなく、基本的にいつも大変で、不安を感じています。
例えば、桜が咲く時期は忙しいイメージがあると思うのですが、うちのお店は大通りから外れた場所にあるのでそれほど忙しくないんです。それであまりお客さんが入っていないとき、不安に感じます。
僕はハラハラしながら毎月過ごしています。住宅ローンなどの固定費は毎月ギリギリで払っています。コロナの中でもそうですが、基本的にずっと大変です。どの時点で大変だったというのはそれほどありません。
ー現在、コロナの中でお店はどのように経営されていますか?
今まではコースと単品料理を提供していたのですが、今は単品料理をほぼやめて夜はコースだけにしました。貸し切りの予約の場合は希望に合わせたコースにしています。
基本的に、予約があった時だけ仕入れて仕込みをするようにして、ロスを減らしています。それでなんとかギリギリを保っています。
一度感染者を出してしまえばその影響は非常に大きいものになる一方で、経営をしなければお店はやっていけなくなってしまいます。
そのため、感染対策を万全にしつつ、お店を開いている状態です。
コロナによる影響はその実害だけではありません。仮にうちが感染者を出したわけじゃなくても、周辺で感染者が出たとしたらうちのお店が原因だと勘違いして噂が広がってしまう可能性もあります。もし間違った噂が流れたら、お客さんが感染したら、僕自身が感染したらと考えると、本当に怖いです。
今のコロナの状況を見ていると、感染者はどうしたって出てしまい、完全な0にすることは難しいのではないかと思っています。そして、その0を目指すことで僕たちのような飲食店はこの先絶対に厳しい状況になります。
コロナ感染者を出すことは確かに避けなければならないことですが、感染対策をしながらお店を経営し、お客さんにも安心して来店していただけるような環境ができればと思っています。
現在は売り上げと、足りない分は持続化給付金を使いながら経営しています。それらのお金を使い切る前に、みんなにコロナでの感染対策をしながら上手に伊東に来られるようになってほしいです。今は東京のお客さんが来たとしたら怖いと思ってしまう人も多いと思いますが、そう思わないよう、上手な方法で、別荘を持っている首都圏の常連さんが戻ってきてくれるようになれば何とかなると思います。
今はまだコロナが収まらないので、戻ってこれないのはしょうがないことです。
少なくともこのコース一本の方法は、しばらくやめられないです。
ー以前近辺の飲食店さんが上野さんと飲みに行くことがあると言っていたのですが、この近辺では、飲食店同士の繋がりが強いですか?
妻が「和風スナックとも」経営していた時に、飲食店経営者で仲良くしてたので、大体知っていてます。「花のれん」という炉端焼きのお店のマスターは70歳を超えているのですが、妻がずっと付き合いがあったので、それがきっかけで仲良くさせてもらってます。ほかの飲食店に行って、「とものママってどんな人ですか?」って聞いてもらうと早いと思います。笑
ー「炭火割烹とも」の名前も、「和風スナックとも」からとったのですか?
そうです。妻のことを知っている人は、この地域では多いので、知ってもらえると思ったからこの名前にしました。「あのママが夫婦で始めたんだ」と思ってもらえたらいいなと考えました。
ーメニューは、どのように考えているんですか?
料理やコースの内容は僕が決めています。単品をやっていた時も、入ってきた食材によってどんな料理ができるかメニュー表に書き出していました。
お酒は日本酒だけ僕が決めて、残りは妻が決めています。
ーメニュー決めるのって、難しくないですか?
難しくはないです。基本悩まないですね。伝わりやすさを重視して決めているからかもしれないです。例えば、「柳川風」(ゴボウと卵でとじたもの)の料理は、言葉では伝わりづらいのであまり使わなくて、基本的に「卵とじ」として出しています。
ー将来、どのようなお店にしたいとか、将来の夢はありますか?
大成功した時の夢と、ギリギリの生活だった時の夢とで、ランクがあります。
大成功した時の夢は、カリフォルニアに移住ですね。笑
いつもいい天候なので、その中で細々とお店を開いて「ふわふわさつま揚げ」を揚げたいです。
一番下のランクの夢は、老後に、人並みの最低限の生活ができればいいと思っています。笑
ーちなみに、何でカリフォルニアがいいんですか?笑
天候がいいからです。それだけですね。天候が良ければ、ヨーロッパでもいいです。響きがいいから、今パッとカリフォルニアが出てきました。
ー昔は料理を自然と始めたとおっしゃっていましたが、現在は料理が好きという感覚はありますか?
今は好きというよりは、生きるためにやっています。
好きでやれるのは、さっきの夢で言うと中ランクくらいより上の夢ですね。規模の小さいお店で、お客さんと楽しく関わりながらやれるお店ができれば、仕事やっててよかったとか、仕事楽しいなと感じられると思います。
今はまだ必死でやっている状況です。僕の顔からはあまりわからないかもしれませんが、がむしゃらというか、とりあえずやれる限りのことはやっているという状況です。
普段は笑っていることが多いのでのんきな性格だと思われがちなのですが、実はいつも必死です。お店をやめてしまうと生きていけないので。

【インタビューを終えて】
「一番大変だった時はいつですか?」という質問に、今が一番大変だという答えが返ってきたとき、飲食店のコロナによる影響を、言葉で初めて実感しました。飲食店を経営していない僕は、コロナの中では、「外出するかしないか」という部分しか考える機会がありませんでした。しかし今回インタビューさせていただいて、コロナによって生活が大きく左右される人がいるということを強く感じました。コロナの感染は確かに防がなければなりません。しかし、それが完全自粛の形になるのではなく、しっかり感染対策をしながら、お店を利用したり、外出ができるようになってほしいと思いました。そっちの方が、お店もお客も、きっと幸せを感じられるはずです!
一度お店でランチを食べたことがあるのですが、お店に入る前に検温したり、距離を保って席を作っていたり、飛沫感染防止のシートを設置したりなど、できる限りの感染対策をされていました。
また、お客の料理を待つ時間を少なくするように、予約の際にメニューをあらかじめ聞いて、来店時間に合わせて調理する工夫までされています。
僕はその時は親子丼、友人はマグロ丼を食べました。とっても美味しかったです!


お店を利用して感染対策を見て、美味しいランチを食べて、上野さんのお話を聞いて、コロナの中でも、このような形で多くの人がコロナの感染対策をしながらお店を利用できるようになってほしいと強く思いました。普段生活しているだけでは気がつくことができないコロナの影響を、はっきりと感じたインタビューでした。
上野さん、ありがとうございました!