伊東の名産ぐり茶を100年以上作り続ける「市川製茶」 社長 市川正樹さん(伊東市)

伊東市民であれば知らない人はいない、伊東の名産「ぐり茶」。このお茶を伊東で最も長く作り続ける「株式会社市川製茶」は、なんと大正8年創業。今年で101年目になります。

今回は、その3代目社長、市川正樹さんにインタビューさせていただきました。現在、市川製茶の店舗は市内に5店舗あり、商品はインターネットからの購入もできます。

また、市川さんは社長というだけではなく、伊東市商店街連盟会長・伊東地区安全運転管理協会会長・伊東市勤労者共済会長・伊東西ロータリークラブ理事・熱海伊東法人会理事など、市内で多様な役職に就かれています。

そのように伊東市に対して幅広い視点から携わっていく中で、ぐり茶に対する思いや伊東に対する思いをお伺いしました。


緑茶ができるまで

お茶は、発酵茶の紅茶・半発酵茶のウーロン茶系・不発酵茶の緑茶に分かれていて、茶葉は摘むとすぐに発酵が始まるから、緑茶の場合はすぐに蒸して発酵を止める。その後、重しで練って、乾かす。煎茶の場合、最後に精揉(せいじゅう)という、お茶っ葉を細くしながら乾燥させる工程があるんだけど、ぐり茶を作るときにはその行程はないんだよ。ぐり茶の場合は、「再乾(さいかん)」といって、ドラム缶を横にしたような「再乾機」で熱風で炙りながらお茶っ葉を中で回して乾燥させる。その製法で茶葉が丸くなるから、正式名称は「玉緑茶(たまりょくちゃ)」って言うんだよ。

(再乾機参考リンク:https://web-terada.jp/product/details.php?id=167

お茶の歴史

お茶の歴史は長くて、戦国時代や江戸時代には既に浸透していて、武士の間では重宝されていた。武士の間で流行った理由は、お茶にカテキンとテアニンという、鎮静作用がある成分が含まれていたから。戦いの際、武士は死ぬかもしれないからどうしても心が動揺する。だから、狭いお茶室に閉じこもったりお茶を飲んだりして心を落ち着けるようになった。織田信長はすごく高級な茶道具を揃えたりしてたんだよ。

ぐり茶が生産されるようになるまで

静岡でお茶が有名になったのは、江戸時代になって徳川家康が駿府に隠居して、家康を慕っていた武士たちも駿府に移り住んできた時。国内が平和だったこともあり、暇な武士たちの仕事として静岡でお茶栽培が奨励された。それでお茶を作ったら、たまたま山間部で気候の条件がよくて、美味しいお茶ができたんだよ。でも、大量生産をするために必要な精揉機は、お金が高くて場所もとるから、精揉機よりも安く導入できる再乾機で、ぐり茶を作るようになった。その機械のおかげで大量生産して清水港から輸出できるようになったんだよ。

伊東でお茶栽培が盛んになったのは太平洋戦争後。今の門野中学校がある辺りの陸軍の演習場があったらしく、そこがお茶畑になった。荻地区の方にも「茶畑前」って名前のバス停があるけど、そこも茶畑だったんだよ。

輸出国は、昔はロシアが多かった。1997年にロシアのエリツィン大統領が橋本龍太郎首相と川奈ホテルで会合したことがあって、エリツィン大統領がお茶を好んで飲んでいたことから、ロシアにぐり茶を多く輸出するようになった。ロシアは寒いからウォッカが流行っているけど、中にはお酒が飲めない人もいるから、そういう人にはお茶が好まれていて輸出したんだよ。

ぐり茶名前の由来

輸出する時は、明治時代から「ぐり茶」という名前だった。

「ぐり」の名前の由来は、古代の勾玉からきていて、勾玉のことを 「屈輪」って書いて、「ぐり」って読んでいた。そして、ぐり茶の茶葉はその勾玉の形に似てたから「ぐり茶」になったんだよ。グリグリしてるから「ぐり」という名前ではないんだよね。

「火入れ」という、茶葉を加熱し、香りや甘味をつける工程の前の茶葉。ところどころ茶葉が丸まっているのがわかります。

ぐり茶の特徴

煎茶もぐり茶も葉は同じだけど、煎茶を作る精揉機だと、お茶っ葉を擦るように作るから葉っぱを傷めてしまう。一方で、ぐり茶は転がしながら乾燥させるから、あまり葉っぱをいじめない。 その分、ぐり茶は苦味が少なくて甘味がすごく強いね。それに、お茶っ葉が丸まっているから、急須に入れた時に何回もお茶が出るんだよ。

仕事としてお茶に関わるようになるまで

初代の祖父と秋山さんという方が大正8年に創業した時も、高い機械を買うことができなかったから、再乾機でぐり茶を加工した。でも、元々うちのお店はお菓子屋さんで、和菓子といったらお茶が合うと思いお茶生産を始めたから、お茶生産は小売りではなくて賃加工が主だったんだよ。

小売りは、2代目の親の代から始まった。

私は、小学校5,6年生になった時にはもうお店の手伝いをしていたよ。大学は東京に行ってたんだけど、その時も長期休みはお手伝いをしてたね。いつかは継ぐと思っていたから、大学では商学部経営学科に入って、卒業後すぐに伊東に帰ってきた。でも、10月には親父と喧嘩して外に出てしまったんだよ(笑)。

それで熱海・湯河原で5年間働いた後、やっぱり茶を作りたいという思いがあったから、本場の静岡市に行った。そこで働こうと思った問屋さんが、偶然にも市川製茶と取引があったところで、5年間働いたよ。その後伊東に帰ってきて、市川製茶で真剣に働くようになったね。

先代の教え

親父はとにかく職人気質で「趣味が仕事」「仕事は見て覚えろ」という人だった。

だから「横着をしてはいけない」ということは言われていたね。

「お店に来てくれる人にはもちろん、従業員さんにも、仕事を引き継ぐ時には面倒くさがってはいけない。自分以外の全てがお客様だから。」ということを教わって、それだけは守っているよ。

ただ、昔よく言われたような「今の若者がどうのこうの」ということは思わないようにしてる。良い悪いというわけではなく、今は今なりに考え方も変わっているからね。高度経済成長のおかげで、何か作れば売れた時代も確かにあったけど、今はそうではなく、選ばれる時代になった。だから相当努力する必要があって、市役所で例えれば、「市役所って何であるんだろう」「市役所の立ち位置って何だろう」ってことを考えなくてはならない。 市民が幸せに暮らしていけないと、伊東を選んでもらえないからね。

市川製茶は大正8年創業で、お茶屋としては伊東での歴史は一番長い。だからこそ、伊東のブランドを支える企業として、日本全国にぐり茶をもっと広めていきたい、知っていただきたいとていう思いが強いよ。

市川製茶が全国に広がるまで

市川製茶はネット通販もやっているけど、もともとはネット通販ではなく口コミで広がったんだよ。そのきっかけは、親父がリアカーにお茶を積んで一生懸命坂を上って配達している姿を、ハトヤホテルさんの女将さんが見て、「うちにもお茶を入れていいよ」と言ってくれたこと。今までは売店用がなくて、ホテルの部屋に置いてあるようなお茶しか売っていなかったんだけど、それがきっかけでハトヤの売店でも売れるようになった。当時ハトヤホテルは日本全国で有名で、新婚旅行でも熱海か伊東が選ばれる時代だったから、 そのおかげでうちのお茶も広まっていったんだよ。

湯の花通り店 店内
茶葉だけでなく、ティーバックやお茶菓子、お茶漬けなど種類が豊富です。

でも、今の時代は消費者もどんどん代替わりして行くから、やっぱりネット通販も欠かせないよね。

ネット販売では、ショッピングサイトを使わずに自社のホームページから買えるようにしている。ショッピングサイトだとコストがかかるということもあるけど、親父から「面倒くさがってはいけない」ということを教わってきたからね。とにかく飲む人の気持ちになって、本当においしいお茶をより安く提供できるお茶屋をやらなければいけないと感じているよ。

市川製茶としての取り組み

ある時、取引していたある営業の人に、「市川さん達っていいですよね。普通のお煎茶は日本中どこにでもあるけど、ぐり茶って伊東しかないですからね。」って言われて、「それだ」と思った。

伊東にしかないお茶だからこそ、自分ができる範囲から、着実に広めていきたい。

昔は、食卓にはご飯と味噌汁は絶対あって、祖父母と三世代で暮らしていたから、お茶を入れてくれる人もいたけど、今は核家族化が進んだ。会社でもお茶を出す人はいなくなって、ペットボトルのお茶が出てきた。お客さんがペットボトルのお茶を持ってきて、「これと同じお茶をください」と言われた時は、時代の違いを感じたね(笑)。

だた、日本人がお米を食べる限り、お茶は絶対なくならない。その中で、かつての文化は失われていったとしても、やっぱり急須で入れた煎茶の方が美味しいっていうことを分かってもらいたい。さらに、普通の煎茶よりもぐり茶の方が甘みが強いということも広めていきたいと思ってる。

それは地道にやっていくしかないね。例えば、ほうじ茶は高温でお茶を温める必要がある分、香りが遠くまで届くから、それを利用して実演販売をしてる。そうすると香りが頭の中に強く印象が残って「またあの香りが嗅ぎたいな」って思ってもらえる。私も実演販売で他の店舗に行っているよ。あとは、通販に力を入れたり、ナガヤさんやイオンさんに商品を置いてもらったりしているね。数年前には、伊東市内の小学校2校の4年生から6年生に、お茶についての授業をして、実際にお茶も飲んでもらうということもした。

そういう風に、地道に、まずは地元の人に知ってもらって、人との繋がりを作りながら広げていきたいと思う。なんといっても、静岡県で思い浮かぶものはお茶の県だっていうことだからね。

環境問題について

伊東市は、自然が豊富だよね。それと、これは伊東だけではないけど、伊豆半島は世界ジオパークに認定されていて、地質学的にすごく特異的な半島なんだよね。それを日本国内だけでなく、世界でもさらにアピールしていきたい。伊東市もぐり茶も、そういう独特な半島の恵みを受けているから、環境問題にも取り組んでいるよ。

今、世界の環境はギリギリのところまで来ていて、今の環境を残せなければ人類が住めなくなってしまう。温暖化が進んでツンドラ地帯の永久凍土が溶けて溶けると二酸化炭素がさらに排出され、新たな病原体も出る可能性もある。だから、今生きている私達がなんとかしなければならない。環境問題は本当に心配しているよ。

お茶畑の下にはよくため池みたいなものがあるんだけど、5,6年前に見たとあるため池は、ものすごく透明で綺麗だったんだよ。だけど化学肥料で綺麗にされていたから、驚いたことに生き物が生息していなかった。それを見てから危機感を覚え、ぐり茶を作っている農家さんにもできる限り減農薬の肥料を探して寄付したり、植物に対して良い影響があるような、持続可能な畑を作ってもらえるようにお願いしたりしているよ。

今後の伊東について

伊東市は、まずは安心して観光できる街にすることが大切だよね。熱海・伊東・下田は、医療の中核になるべきだと思うから、医療体制を充実させて、今回のコロナや今後の地震への対策は必要。「いとうエールクーポン」も、経済を回すのには大事なこと。特に伊東は夫婦で経営しているお店も多いから、このままだとどんどん潰れてしまう。安全な街があってからこそ人が来るわけだから、まずは住民が安心して住める街にしていかなければいけない。

静岡県の1/3の観光を伊豆半島が担っていて、いい温泉もあるし、位置的にも東京・神奈川に近い。だからこそ安心して来られる街にして、将来に亘って人の動きが止まらないようにすべきだと思う。

分断を作らずにみんなが幸せに暮らせる街が理想で、たとえ難しくても、それに近づくためにはどうすべきかを、考えていかなければいけない。

そこで重要なことは、 縦割りはなくすこと。もちろん縦割りが必要なところはないとまずいけど、私は安全運転管理協会・熱海伊東法人会・伊東西ロータリークラブ・伊東商工会議所など色々関わっているから、横のつながりが強くて早く動けるんだよ。同じような事を小さな規模でやっても意味がなくて、そのように各部門と連絡を密にしないといけない。伊東市には9つ商店街があるけど、お金も人も限られているから、私は商店街連盟の中で、協力・連携・継続しようと言っているよ。補助金も最終的には国民に借金として返ってくるから、いつまでもあてにはできないからね。

湯の花通り店 外観
市川製茶ホームページhttps://www.guricha.jp/hptop.html
各店舗案内https://www.guricha.jp/honten.html

インタビューを終えて

ぐり茶を実際に買って飲んでみました! 同じお茶っ葉でも、確かに何度もお茶が出ました。また、お話であったように、自分が今まで飲んだ煎茶よりも苦みが全くなく、甘味を感じました。あまり舌の肥えていない自分でもはっきりと違いが分かったので、飲んだことがない方は、ぜひ一度試しに飲んでほしいです!

また、お茶を飲むことによってコロナの感染予防や重症化リスクを減らす可能性が高まるよいう研究も出ています。(https://gendai.ismedia.jp/articles/-/79248

さらに、緑茶はがん予防にもなるとも言われており、ただ味を楽しむだけではなく、健康のためにも、緑茶を飲む習慣は大切な文化です。

ここで、市川製茶の工場を案内していただいたので、ご紹介します!

これは、火入れの工程の前のお茶(荒茶)です。濃くてかなり苦みが強いですが、火入れをすることで甘味のあるぐり茶になります。この段階で味見をして、品質を判断するそうです。

こちらが火入機。中にドラム缶を横にしたような物が入っていて、ここに先ほどの茶葉を投入し、炙るように火入れをします。

作られたお茶は、この巨大な冷蔵庫の中で保管されています。

1箱に30㎏入っています!

市川社長の後ろにある機械は、合組機(ごうくみき)という、お茶をブレンドする機械です。この機械で、お茶の品質のバランスを保ちます。

お茶をブレンドしたり、分別したり、火入れをしたりなど、お茶作りには様々な精密な工程が含まれていることを知りました。

100年というのは、本当に長い時間だと思います。

その中で市川製茶さんが現在の形として残っているのは、話の中であったような、地道な努力の積み重ねなのだと感じました。先代がリアカーで坂を上ってお茶を運び続けたことや、実演販売や小学校での授業など。そういった、派手とは言えないけれど地道な努力というものが何事においても重要なのではないでしょうか。

一日死ぬ気で頑張るよりも、小さな努力をずっと続けるほうが、はるかに大変だと思います。自分自身も、何かを続けようとして結局続かなかった経験は何度もありした。しかし、こういったことを挫折してしまう人がほとんどだからこそ、それを継続できることで結果を出せるのだと思います。

大正8年に創業し、その会社を受け継いでいる市川社長がおっしゃることだからこそ、その言葉に重みを感じました。日々の生活習慣を見直し、僕も少しずつ、努力を継続することを大切にしていきます。

インタビューの最後に、「頑張ってください。こういう小さい努力が、大きい努力になって良くなっていくからね。」という言葉をいただきました。僕たちの活動をしていく上で、勇気をもらえる言葉でした。

これからも継続して頑張ります。ありがとうございました。

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