ジモシルウォーク Vol.1(河津三郎祐泰の血塚)@伊東市

【1.ジモシルウォークスタート!】
初めまして、記者の鎌田です!!静岡のつどいでは主にweb・sns等の管理、制作に携わさせて頂いています。
これからは記者としてもぼちぼちと記事を書いていく所存なので宜しくお願い致します。
まずはじめにジモシルウォークとは、自分の地元の散歩記録です。その場所ごとに写真や説明をアップし、地元の魅力を発信していきます。
より詳しい概要はこちらに→https://shizuoka-tsudoi.com/overview/
第一回目の今回は「伊東市指定文化財 河津三郎祐泰(かわずさぶろうすけやす)の血塚(ちづか)」に行ってきましたのでリポートします!

【2.経路紹介】
国道135号線を八幡野から下田方面へ降りていき八幡野観音を少し通り過ぎていくと、右手側に旧道入り口あります。ルネッサ赤沢の看板が目印
そちらへ入っていきます。

旧道入ってすぐのところに河津三郎祐泰の血塚 500M先という看板があります。そのまま道なりに進みます。
道幅が狭く歩道もないため歩かれたり、車での走行は十分にご注意ください。

200m程進むと血塚 350mという看板が出てきますのでそちらを左折していきます。
※血塚のある場所は、浮山温泉郷の私有地になりますので立ち入る際は管理事務所へご連絡ください。

そのまま50mほど進むと 血塚→という看板がありますのでそちらを右折していきます。

そのまま道なりに進んでいき、突き当りが河津三郎祐泰の血塚入り口です。

【3.河津三郎祐泰の血塚とは】
皆さんは血塚と聞くと何を思い浮かべるでしょうか。私はなんとなく文字の響きからおどろおどろしい場所と勝手に想像していました。
この血塚とは暗殺された河津三郎祐泰を弔うお墓です。
詳しく説明していくと、1176(安元二) 年10月、配流の 身の源頼朝を慰めるためにと、恩義ある 伊豆・駿河・相模の武士たちが奥野で巻狩りをもよおした。その帰り道河津三郎祐泰が、所領問題で恨みをいだく工藤祐経(すけつね)の指し図によって近くの椎の木三本 で待ち受けていた大見小藤太・八幡三郎 に射ころされる。祐泰は、伊東祐親(すけちか)の長男であり、曽我十郎・五郎の父にあたる。 そのとき共にねらわれた祐親は、あやうく難をのがれた。世に知られる曽我兄 仇討ちの発端になったできごと 。
後に、供養のため積石塚と宝篋印塔(ほうきょういんとう)一基をつくり、血塚として伝えてきた。 なお、宝篋印塔は、形状からみて南北朝ごろのものと推測されている。
指定 昭和42年7月25日
                                                          一部現地看板より引用

【4.伊豆東浦の古道(旧下田街道)】
血塚より少し奥に行くと両脇に石が積んである道があります。
この道は、江戸時代以来昭和八年まで、伊豆の東海岸筋を通る一番大切な道路でした(現在の国道135号線にあたる)。
もっと昔からあって、いわゆる鎌倉古道であったとも思われています。江戸時代、伊豆の主要街道は東海岸を通るこの東浦路と、天城峠を越える天城路の二つで、どちらも下田道(下田街道)と呼ばれていました。
下田奉行や浦賀奉行一行が行列を作っては何度も通り、老中松平定信は何百人もの供を連れて駕籠に揺られこの道を通りました。吉田松陰は下田を目指してここを駆け抜け、又、俳人や文人たちが曽我物語の跡をたずねて足を運びました。
                                                            一部看板より引用

【5.感想】
正直この場所に来るまでは赤沢に血塚という史跡があるんだな程度の認識でした。
静岡県の伊東という地で教科書にも乗るような出来事が起きていたとは知る由も無かったと思います。
実際に行き、見て、感じ、改めて自分は「伊東」について何も知らないんだなと痛感させられました。
これからはもっと地元を歩き、地元のことを知って行きたいです。そして、それを通じて誰かのもっと地元のことについて知りたい!というきっかけになれれば、最高だなと思いました。

自分が行った日は気温が31度ほどありましたが、河津三郎祐泰の血塚の辺りはひんやりとして過ごしやすく、散歩がてら涼みに行くのも有り何じゃないかなと思います!

第一回ジモシルウォークいかがだったでしょうか。最初の記事で拙い部分もあるかと思いますが、最後まで読んでいただけたら幸いです。そしてこのジモシルウォーク定期的に更新できるよう色んなところ歩いていきます!これからも宜しくお願いします!!
次回は血塚より奥にある、伊雄山に行って来たのでその様子をリポートしたいと思います。お楽しみに!

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